吉野絢人
Kento Yoshino
「こちら」「あちら」
「わたし」「あなた」 「不自然」「自然」
「仲間」「他人」 「富」「貧」
「我々」「かれら」 「みんな」「わたし」
「あいつら」「おれら」 「きれい」「汚い」
「内部」「外部」 「正しい」「間違い」
「正義」「悪」
私たちは、地球上に様々な境界線を引いた。
様々な境界線のある世界で線を引きながらも、
私たちは果たして共に生きていくことができるのだろうか?
本作品は、東京にある「境界未定地」「飛び地」を撮影したものである。
この作品を作るきっかけは、公園の広場に線が引かれているのを見たことからだ。
単に子供の遊びではなく、なぜ何でもない場所に区別を設けようとするのか考えさせられたのだ。
そして、境界を作り出す人間の根源的な理由を知りたいと思い、昔の人の信仰や考え方に興味をもった。
とくに北海道の先住民、またパレスチナとイスラエルを調べていくと、彼らが酷く迫害、侵略され、言語や暮らし、仲間や故郷を奪われてきた歴史を知った。
それから境界に関連する写真を撮影するにつれて、日本に土地の境界問題を抱える場所があることを知った。
実際に「境界未定地」に行くと、その付近を通る人々は、境界が未確定であることを何も気にしていないように過ごしている。
私も普段からよく通う水元公園の池が「境界未定地」だとはこれまで全く知らなかった。
そのような争いが目に見えない形で沈静化し、昔から今も残っていることは、
これから大きな問題に発展するという可能性も秘めているのではないだろうか。
また、撮影した「飛び地」も普通の住宅街の中にあったが、ゴミ収集、郵便などの事情を抱えながらも、複雑な境界の中で存在しているような気がした。
簡単にまとめ、括ることのできないものが、排除・統一されずに存在している。その事実に複雑な境界の新たな在り方を感じた。
どうすれば、「わたし」「わたしたち」と異なる「他者」が共に生きることができるのだろうか。
それは「わたしたち」と「かれら」の境界線・輪郭を、新しく捉え直し、差異を曖昧にすることである。
「わたしたち」「かれら」の境界線は、互いに差異を強調しあうことによって作られている。
しかし、対立や分断しているとされる両者には、相手の存在を必要とする「つながり」がある。
「分断はかならずしも「つながり」が失われた状態ではない。激しく対立し、分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれない」
(松村圭一郎著『はみだしの人類学』)
差異の境界線・輪郭を曖昧に捉えなおすことが、異なる「他者」と共に生きるための方法ではないだろうか
「境界未定地」という場所が日本にあるということから、このような事柄について少し親しみをもつきっかけになれば幸いである。
境界を巡る対立が世界中にこれ以上広がらないことを、心から願っている。