Variant
河村 拓哉
母方の祖母の記憶があいまいになってきた。そのうち私も忘れられてしまうのだろうか。
人間の記憶は恒久的なものではないことを改めて思い知る。
そして一方、我々はコンピューター技術によって簡単に記録が改変できてしまう現代に生きている。
どれがリアルでどれがフェイクかわからない。
記憶のメモとして写真を撮ってきた節のある私は、自分の記憶が揺らぐような不安感を覚えた。
その中で、私は自分の撮った写真が確かな現実であった感覚を求め、1枚の写真を5枚の連続写真にして見つめ直す。
その時の時間の流れを再現してみたり、新たな世界の可能性を創造してみたりした。
その作業は実際あったものを消したり、新たな物語を作り出したりと様々だ。
その過程を5枚の連続写真として並べる。するとだんだんとみていた現実と虚構があいまいになっていってしまった。
客観的にみるとその5枚の写真はどれが元の写真でどれが作られた写真かひと目見ただけではわからない。
元の世界の変異体に気づけないのだ。
どの写真も現実であるような感覚を覚え、リアルとフィクションがないまぜになるような危機感を覚えた。
自分が認識している現実が現実である証拠は一体どこにあるのだろうか。
結局のところ「現実」という感覚は各個人の記憶や経験の中にしかないように思える。
だから私達は目の前をよく見て、日々を噛み締め自分の現実を生きるしかない。
今回一枚の写真を組み替えることでうまれた虚構も、もしかしたら別の誰かの現実かもしれない。
私達は私達の現実がわかればいいのだ。
記憶というものはたとえ曖昧になってたとしても今の自分がそれらをどう受け止めるのかによって
常に変わり得るものなのではないだろうか。
もし忘れてしまったとしても現実はいつでも自分自身で作っていける。その現実を私たちは大切にしていきたい。
今回、祖母を通して記憶について考え始めたが、記憶は正しい正しくないだけではなくて、
本人がどう受け止めているかが重要であることに気づいた。
記憶は変わるものであり、あいまいなもの、そういうものである。
しかし、その要素は同時に危険性も孕んでおり、今ある現実をどう受け止めるかによって現実はかわってしまい、
切り取り方によって事実は曲げられてしまうと言える。
フェイクニュース然り、AI技術などによって報道の場でも現実というものが揺らいでしまっている。
この作品は、5枚の連続写真として虚構を作りだし、現実の世界を捉え直すことによって、
別の現実を考え、現実の揺らぎとその危うさを考えるための試みである。