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森永さくら
’「存在」は自明の概念である。
どんな認識にも、どんな言表にも、また存在者に対してどのように振る舞い、自分自身にどのような態度をとろうとも、
「存在(ある)」が用いられており、 その際この表現は「何事もなく」理解されている。
「空が青い」「私は嬉しい」ということを誰でも理解する。
しかしこの普通の解りやすさは、解りにくさを 証明しているにすぎない。
…我々はすでにその都度何らかの存在了解のうちで生きており、それと同時に存在の意味は闇に 覆われている。
このことが「存在」の意味への問いを繰り返さ ねばならない原理的な必然性を証明している。’
Martin Heidegger
『Sein und Zeit』
「存在への問い」
私たちは何事もなく目の前の存在を認識して生きている。
常に何かの存在に生かされている。
目の前の存在を信じて進むが、果たしてそれでいいのか。
ヒトはどこから来て、今ここに存在しているのか。
影は形を捉え、存在を認識するきっかけを与え、
光は存在を強調して、答えに近づけてくれた。
私はゆらゆら自身の問いを考え、具現化を目指すが、
証明することは難しい。
そんな時、すでに写真は易々と存在を取り込み、
証明していた。
存在への問いに写真で立ち向かう私は、
目の前の存在に常に守られていたのだと気づいた。
そして取り返せない一瞬の存在を取り込む、
写真の強さに打ちのめされた。
この先も目の前の存在を信用して、しがみついて、
生きていくのだろう。
作者の想い
私は自身の問いを写真作品のテーマにしている。
この作品で「存在」をテーマとして選んだのも、
常々存在とは何かと考えていたためである。
私が見ているモノ、ヒト、場は本当に、そこに存在しているのか、
本当は存在すらしていなく、自分の中だけの出来事なのかもしれない。
当たり前で、何事もない疑問であり、
"考えすぎだ"と言われればそれまでのものだ。
私にとって写真は、自身の問いを具現化するのに一番のツールである。
今回のテーマである「存在」に関しても、
写真はすでにレンズの前の存在を取り込み、証明していた。
だが存在を淡々と冷静に示す、写真の力はあまりにも強すぎた。
それはこの作品内で「存在」という当たり前を問うことで、
鑑賞者が新たな物事を発見し、気づきに繋がることを目指したなかで、
写真だけではリアルを写しすぎ、答えを簡単に教えてしまうからだ。
存在への問いを表現するこの作品において
当たり前の事柄だからこそ、
あえて分かりにくさと曖昧さで写真を覆うことで、
より気づきや再認識に繋がることだろう。
私自身もこの作品から存在を改めて教わったように、
鑑賞者も目の前の存在について、
改めて考えるきっかけとなることを願う。